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越後の歴史・文化 

長岡の歴史・文化

日米和平の架け橋・駐米大使 斉藤博(さいとう ひろし) (1886~1939)

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日本人ばなれした英語力で軍縮会議などで評判になった外交官。
日本外交の誠実を説いたが、その心労がたたり願いもむなしく病没。
 
明治19年(1886) 12月24日、元長岡藩士斉藤祥三郎の二男として、勤務先の岐阜で生まれる。祖父の斉藤幸哉は戊辰戦争に従軍。父祥三郎は戦後、国漢学校、洋学校から札幌農学校へ進み、卒後英語教師として各地に赴任。父が外務省の翻訳官になり東京に定住すると、祖父とともに郷里長岡には毎年帰郷。
 
博は日本中学を主席で出て学習院高等科に進み、志賀直哉・武者小路実篤と交友。明治43年東京帝国大学法学科を終え、同時に高等文官試験に合格。領事官試験もトップで通過。最初の任地はワシントンで幣原喜重郎、松岡洋右らの下で働いた。堪能な英語力を持つ斉藤は欧米畑のエリート外交官の道を進む。
大正8年、大戦後のパリ講和会議に参加、吉田茂のロンドン勤務で、吉田・斉藤のコンビが生まれる。翌9年の国際軍縮連盟総会、10年海軍軍縮を決めるワシントン会議に参加、11年シアトル領事。12年に帰国したが12月にニューヨーク領事となり、ダレス氏(後の国務長官)を知る。昭和5年、世界恐慌下のロンドン軍縮会議の主席全権、若槻礼次郎の通訳で、海軍の次席専門委員山本五十六とともに軍縮会議にのぞみ、難しい会議を乗り切った。斉藤と山本は創生期の長岡中学野球部のコーチをともにした仲である。
昭和6年の満州事変、8年の国際連盟脱退など世界の孤児の道を進む日本の外交の中で、8年にオランダ大使、9年に49歳の若さで特命全権アメリカ大使となる。
先のワシントン会議で日米同盟が廃棄され、日米両国の間が険悪になると、斉藤はルーズベルト大統領と広田弘毅外相に日米の同盟締結の要を説いたができなかった。
日本外交の本旨を著書や放送で強く米国国民に訴えたが、軍部の独走で中国大陸を犯す行為で世界の信を失っていった。揚子江で日本軍が米国砲艦と商船を爆沈させた時も、いち早くラジオの全米放送で素直に謝罪し補償を約すなど、日米の和平に常に心を砕いていた。
次々と起こる心労が斉藤の両肺を侵し、近衛文麿首相から外務大臣の要請を受けた時は、帰国できないほど悪化。アメリカのホテルで日米の和平を念じながら54歳の人生を閉じた。

ルーズベルト大統領は国賓として斉藤の遺骨を軍艦で日本に送った。横浜港で遺骨を迎えた一人に、郷里の友、山本五十六の姿があった。 

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