日本造船界の先駆者 白峰駿馬(しらみね しゅんめ) (1862~1911)
土佐海援隊に入り、長岡出身最初のアメリカ留学
弘化四年(1947) 5月、長岡藩士・鵜殿瀬左衛門長義の三男に生まれる。文久二年(1862) 江戸遊学。元冶元年(1864) 4月、勝海舟の海軍塾に入門。慶応元年(1865) 春、坂本龍馬の亀山社中に参加。大極丸の船長となり長崎、大阪間を回航した。海援隊にも加わる。
明治元年(1868) 十一月、アメリカニュージャージー州のニューブランズウィックに留学し、造船学を学ぶ。帰国後、明治8年、海舟(海軍卿) の推薦で海軍省の主船寮主船小匠司となり、翌9年、東京府下函崎町官用地で帆前船の「白峰丸」を建造。日本における洋式造船の先覚となる。
白峰は造船業に邁進するため海軍省を辞し、神奈川県青木町に「白峰造船所」を興し、わが国屈指の造船会社に育てた。白峰が建造した「九十九丸」が日本で始めて東京海上保険会社から保険対象船と認定され、白峰造船所の技術の素晴らしさが社会に認められた。
明治12年(1880) 、岩崎弥太郎の三菱関係の船舶修理を一手に引き受けるなど、造船界の先駆者として活躍する。
明治13年、新潟県関係の北越親睦会を浅草東本願寺で設立した際の発起人となり、この会が後の新潟県人会に発展する。
明治44年(1911) 六十四歳で病没。